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大阪市有形文化財・史跡、大阪市内に唯ひとつ残った新田会所跡。
この周辺の地域は、延享2年(1745年)、加賀屋甚兵衛によって干拓が開始されました。この埋立ては、その後数回に分けて北へ北へと拡張されていきます。これらの民間資力による開拓事業は、幕府の崩壊で終りますが、その間の開拓総面積は、今日の大阪市域のほぼ3分の1にもあたるものです。なお当地の会所建築は宝暦4年(1754年)のことです。小堀遠州流の築山林泉回遊式庭園や数寄屋風の建物が一部現存し、大正時代に「愉園」と名づけられ大阪名園の一つになっています。
平成13年12月11日には、大阪市有形文化財・史跡に指定されています。
数奇屋風の茶室(鳳鳴亭)
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