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江戸時代初期の香りを残す奥ゆかしい建物 -旧河澄家-
河澄家
河澄家(かわずみけ)は、辿れる確実なところでは南北朝時代の応安二年(1369)に入滅した日下連(むらじ)河澄与市大戸清正に遡り、江戸時代には代々作兵衛を名乗り庄屋を務めた旧家です。寛政十年(1798)、日下村に隠棲していた上田秋成は第15代当主常之と親交を持ちました。第19代当主雄次郎は教育に情熱を傾け、明治五年(1872)の「学制」に基づき小学校設立に私財を投じて力を尽くしました。また、雄次郎の娘ナミが富田林の旧家杉山家に嫁いで誕生した娘タカは、明星派の歌人石上露子として活躍しました。
住宅
旧河澄家住宅は、敷地中央に主屋、その西側に「棲鶴楼(せいかくろう)」と呼ばれる奥座敷を備え、北側には長大な土蔵を配しています。主屋は改造、増改築は多いながらも江戸時代の様相を残しています。
棲鶴楼
棲鶴楼は主屋西側に付随して建てられた数寄屋風書院造りの建物です。桁行四間X梁間五間あり、主室は八畳間です。南側と西側に一間の鞘の間(さやま)が廻り、北側に床の間を設けています。前身建物は慶安年間(1648-1652)に大阪西町奉行の曽我丹波守古祐が隠居するために作らせたと伝えられています。また『雨月物語』の作者である上田秋成や唯心尼(ゆいしんに)、森公道・祖盈(そえい)など近郷文人が集まる文芸サロンとなっていました。現在の建物は天保六年(1835)の改築です。
庭園
庭園は江戸時代初期の庄屋屋敷の庭園です。主庭は南面から西面にかけて築山を施し、中心に枯池を穿った枯池式枯山水庭園かやの木
主庭の東隅にある常緑針葉樹の大木です。雄雌異株であり、本樹は雌株です。4-5月に花が咲き、秋には2-4cmの紫褐色の実がなります。幹周が約5mあり樹齢は約500年と推定されています。昭和51年(1976)に「日下のかや」として市の天然記念物に指定されました。
歴史と文化に触れ、建物の美しい佇まいを堪能できる旧河澄家
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