熊野本宮大社御神職の特別案内で、熊野独自の信仰文化に触れる

熊野本宮大社御神職の特別案内で、熊野独自の信仰文化に触れる

2022年02月28日

The KANSAI Guide

本州中央部から太平洋に突き出た日本列島最大の半島、紀伊半島。大部分を紀伊山地が占める豊かな自然が広がり、その自然は、親しみ、畏れ、信仰の対象として崇められてきました。
そんな紀伊半島の南部に広がる熊野地域には、紀元前の創祀と伝わる熊野本宮大社をはじめ、熊野速玉大社、熊野那智大社の三大社、熊野三山が鎮座。聖地・霊場として篤い信仰を集め、平安時代に始まった上皇の熊野御幸により、熊野詣が全国へと広まっていきました。熊野三山へと続く紀伊山地の参詣道は熊野古道と呼ばれ、聖地・霊場とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されています。
今回の特別文化体験の舞台は、熊野三山の一社、熊野本宮大社。神職の案内を受け、非公開の聖域も含めた境内を特別に参拝させていただきます。ご都合がつけば宮司直々のご案内となります。
古来、多くの日本人が訪れた熊野詣の聖地・霊場で、今なおこの地に息づく祈りと信仰の文化を体感しましょう。

陸の孤島、熊野を舞台に生まれた日本古来の祈り

熊野の山中に残る参詣道、熊野古道。蟻の熊野詣と称されるほど、多くの人がこの道を歩いた

熊野の山中に残る参詣道、熊野古道。蟻の熊野詣と称されるほど、多くの人がこの道を歩いた

険しい山岳地帯と、太平洋に面した海岸地帯からなる熊野。平地が少なく往来も困難なことから陸の孤島ともいわれ、古くから人びとに神秘的な憧憬を抱かせる場所でした。この地に鎮座する、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は熊野三山と称され、熊野信仰の聖地となっています。
国生み神話の伊弉冉尊(いざなみのみこと)が葬られた地と『日本書紀』に記されていることから、他界への入口として崇敬を集めたほか、奈良時代には同じ紀伊半島の吉野や高野山とつながる山岳信仰の聖地として修験者が活動。熊野信仰の礎が築かれ、広がりをみせていきました。
こうした熊野信仰は、平安時代後期から鎌倉時代にピークを迎えます。京の都から、上皇をはじめとする皇族が盛んに熊野を参詣するようになったのです。参詣の回数が功徳に比例するとされたため、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回と、約100年の間に90回以上を数える御幸が行われました。皇族の、末法思想への恐怖と極楽往生への祈りから始まった熊野詣の御幸。「蟻の熊野詣」と呼ばれた熊野参詣は、その後江戸時代には庶民にも広まり大流行しました。人びとが熊野を目指して歩いた参詣の道は、現在の熊野古道の基礎となったのです。

神と仏の融合によって生まれた、熊野独自の権現信仰

熊野本宮大社の一の鳥居扁額に記された「熊野大権現」の文字

熊野本宮大社の一の鳥居扁額に記された「熊野大権現」の文字

中世から近世にかけて、日本全国に広まった熊野信仰。本宮、速玉、那智の熊野三山を聖地とするこの信仰は、神社を参拝する神道の要素だけに留まりません。
かつて、それぞれが自然崇拝に根差し、異なる起源をもち発展してきた熊野三山。その間に交流が生まれると、各社が相互に神を勧請し、主祭神とともに祀るようになりました。その後、日本に仏教が伝来すると、神々が降臨する聖地とされてきた熊野にも影響が伝播。神と仏が融和し、神の本地(本体)は仏であるという本地垂迹思想が広まります。神は、仏や菩薩が人びとを救うために権(仮)に神となって現世に現れた(垂迹した)というものです。
その神は「権現」と呼ばれ、熊野三山には各三柱の権現が祀られるようになりました。本宮の家津御子大神(けつみみこのおおかみ)の本地仏は阿弥陀如来、速玉の熊野速玉大神の本地仏は薬師如来、那智の熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の本地仏は千手観音という具合に結びつき、熊野三所権現が確立されたのです。
神道と仏教が融合した神仏習合の要素が色濃い、熊野独自の信仰。こうした文化を知ることも、熊野詣の旅の充実につながるはずです。

熊野信仰の重要な拠点、熊野本宮大社

鎮守の森を背後に、檜皮葺、権現造の社殿が並ぶ。中央が御本殿にあたる第三殿証誠殿

鎮守の森を背後に、檜皮葺、権現造の社殿が並ぶ。中央が御本殿にあたる第三殿証誠殿

今回の特別文化体験の舞台となるのは、熊野三山の一社、熊野本宮大社。熊野のへそと呼ばれている聖地です。
参道入口の大鳥居をくぐり158段の石段を登りきると、正面には太い注連縄が渡された神門。その奥には、檜皮葺の荘厳な社殿が建ち並んでいます。
御本殿である第三殿証誠殿に祀られる主祭神は、木や食を司る家津御子大神。神道では素盞鳴尊(すさのおのみこと)、仏教では阿弥陀如来とされることから、来世の安楽を得られるという信仰が広まりました。
現在の社地は熊野川沿いの小高い丘の上にありますが、かつては熊野川と音無川、岩田川が合流する中洲に12の社殿が横一列に鎮座していました。一帯には寺院や修験道の宿坊も建ち並び、現在の社地の8倍もの規模を誇っていたそうです。しかし、明治22年(1889)の大水害で多くの社殿が流出。明治24年(1891)に、奇跡的に残った社殿を遷座して再興し、現在に至ります。大斎原(おおゆのはら)と呼ばれるこの旧社地には日本一の大鳥居が立ち、由緒ある本宮の神聖な境内地として大切に守られています。

聖域の特別参拝で体感する、熊野権現の深い懐

一遍上人が熊野権現からお告げを受けた蘇りの地で、心静かに合掌

一遍上人が熊野権現からお告げを受けた蘇りの地で、心静かに合掌

そんな熊野本宮大社での特別文化体験は、神職による特別参拝。ご都合がつけば宮司から直々にお話を伺いながら、境内各所を巡ります。
なかでも、一般参拝では非公開となっている社殿の御垣内へ入り、御本殿である第三殿証誠殿の聖域で行う参拝は、特に貴重な機会。このツアーのためだけに用意された、文字通りの特別参拝です。
第三殿証誠殿の聖域は、社殿を囲む回廊の下にあります。時宗の開祖である一遍上人が、自らの念仏布教に悩んでこの場所に参籠し、熊野権現からご神託を受けたという由緒が伝わる場です。
「この場で祈りを捧げた一遍上人は、夢枕に現れた熊野権現から『信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、無心で布教するのだ』とお告げを受けます。これを機に一遍上人は悟りを開き、全国に念仏布教を広めました。ここは、生まれ変わりの地、甦りの地なのです。私どもも熊野権現の教えに習い、信不信、浄不浄、貴賎、男女、老若を問わずご奉仕し、熊野へお参りされる皆様の生まれ変わりと甦りを祈念しています」。第16代宮司の九鬼家隆さんは、そう話してくださいました。
九鬼宮司は、父である先代宮司による雨乞い神事の後、雨が降り出したと同時にここ熊野本宮大社の境内で産声を上げ、地域の人から「熊野の申し子」と呼ばれた特別な人物。そんな宮司の言葉一つひとつを噛みしめながら、恐れ多くもその場に腰掛けて心静かに合掌すると、熊野権現の深い懐に抱かれているような感慨を覚えることでしょう。

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