修験道と山岳信仰の根本道場「金峯山寺」の僧侶による特別案内
2022年02月22日
杉や桜の名所として名高い奈良県吉野町。奈良県から和歌山県の熊野へと100km以上にわたって延びる大峰山脈の北端に位置し、深く険しい山に囲まれたこの地域は、古代から「神さぶる地」と呼ばれ、日本宗教における中心地のひとつであり、今日でも自然の中に身を置き、修行を重ね、祈りを捧げ続ける修験道が脈々と生き続けています。
今回は、この吉野山中腹に位置する修験道の総本山「金峯山寺」、その本堂である蔵王堂へ。今なお息づく修験道の行である護摩供の体験と、同寺で修行を重ねた僧侶による特別案内を通じて、神代から続く人びとの祈りに触れることができる旅となります。
古代から続く修験の場・吉野
紀伊半島南部の霊場(吉野大峯・高野山・熊野三山)とそれらを結ぶ参詣道は、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、平成16年(2004)にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
そして、この道の中核をなすのが、大峯山とそこに立つ金峯山寺なのです。
金峯山寺で今日も行われてる修業は、日本古来の山岳信仰が神道や大陸から渡来した仏教、道教などと習合し、独自の宗教として昇華された修験道。
金峯山寺は、その修験道の開祖である7世紀ごろの人物「役行者(えんのぎょうじゃ)」が金峯山(吉野山から山上ケ岳一帯の総称)の頂上で1000日の修行をした際に、「金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)」を感得し、その姿を山桜の木に彫り現し祀ったことがその始まりと言われています。
この修験道は、多くの人びとに信仰されましたが、高齢者や女性・子どもが険しい山を登り参詣するのは難しかったため、金峯山の山下にあたる吉野山に参詣の場として設けられたのが、金峯山寺の蔵王堂であると言われています。
乱れた世の中で、怒りと慈悲をもって道を示す本尊・蔵王
吉野山の参詣道を歩くとほどなく見えてくる金峯山寺。その本堂が蔵王堂です。
吉野山に自生するスギやツツジなど68本におよぶ自然の巨木を柱とするこのお堂の高さはなんと34m。堂内の天井も高く、内陣には日本最大の秘仏である本尊金剛蔵王大権現が三体祀られており、特別御開帳時には、その姿を見ることができます。
この金剛蔵王大権現は釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊が習合したものとされ、牙を剥き出し、怒髪天をつく恐ろしい威容をしています。役行者が修行をした際、現れたのは優しい姿をした釈迦如来や釈迦如来が姿を変え衆生を済度する千手観音、そして遠い未来に人びとを救うとされる弥勒菩薩であったといいます。しかし役行者は、「今の乱世において人びとを救うにはより力強い仏でなければならない」と望み、それに応えるようにして現れたのが、この恐ろしい姿の金剛蔵王大権現でした。
また金剛蔵王大権現は、全身が青い色をしています。これは、慈悲と寛容を表すもので、乱れた世の中においてあえて怒りを示し、私たちを戒めるその恐ろしい姿の後ろには、つねに父母のような厳しくも優しい慈悲の心が込められているのです。
自らの煩悩を燃やし、世の人びとが良くなるようにと捧げられる祈り
蔵王堂の内陣には護摩壇が設けられており、ここで毎日護摩供が行われています。
内陣を囲むように多くの修験者が座り太鼓の音色に和して金剛蔵王権現の真言を唱えはじめると、お導師の管長が護摩木を護摩壇へと投じていきます。
高く響き渡る真言と心身を揺るがすような太鼓のリズム、ゆらめく炎。そして時折響き渡る、法螺貝の音。
厳粛にして荘厳。思わず背筋の伸びる心持ちがします。護摩の炎は如来の知恵の火を現し、この火を通じて神仏とつながり、煩悩を燃やして無病息災を祈るもの。また法螺貝の音色は魔を退けると言われています。
護摩供は、私たちの罪穢れを祓うものであると同時に国家や人の世の平和を祈るもの。吉野の山では、1300年以上にわたりこの祈りが脈々と絶えることなく捧げられ続けています。
南北朝の苛烈な歴史が刻まれた境内
護摩供の後に、場所を本坊・智泉閣へと移し、こちらでお茶をいただきながら、僧侶による特別案内をしていただきます。この際、ご都合がついた場合は、金峯山寺の五條良知管長にお目にかかることも。
特別案内の中では、開祖役行者や金剛蔵王大権現がどのような仏であるかについて、修験道の成り立ちや修験者の修行やその日常、さらには日本での神道・仏教がたどった、神仏習合や本地垂迹の歴史などについて詳しくお話しいただきます。
特別案内の後には、本坊・蔵王堂の周里に点在する建築・旧跡をめぐり、吉野の歴史とそこに息づく修験道の精神を感じていただきます。
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけての南北朝時代。吉野は後醍醐天皇が開いた朝廷「南朝」の中心地でした。当時金峯山寺には後醍醐天皇が行在所(仮の御殿)としていた実城寺がありました。現在同地は、南朝を治めた四帝とその忠臣を祀る「南朝妙法殿」となっています。
また、蔵王堂の南にはかつて行者や参詣者を迎える門であった「二天門」の跡が残されています。元弘3年(1333)、南朝に鎌倉幕府軍が攻め寄せた際、南朝の忠臣、村上義光がこの門上において、大塔宮護良親王の身代わりとなって切腹し、親王を吉野から脱出させたという逸話が残されています。
訪れるものに畏敬の念を抱かせる吉野山の霊気と、なにより自らに修行を課しつつ、天下の平和を祈る真摯な修行者たちの篤い志。
この地に朝廷を構えた南朝の四帝だけでなく、それ以前の平安の御代より多くの天皇や貴族が行幸した金峯山寺は、明治期に起こった神仏分離政策など受難の時を超え、1300年にわたり、今も修験道の命脈をつなぎ、多くの参詣者を集め続けています。
豊かに表情を変える山桜の森に囲まれた、歴史あるこの古刹での体験は、修験道という神秘的な日本独自の宗教の心に触れる機会を与えてくれることでしょう。