人間国宝 九代目岩野市兵衛氏の工房見学
2021年12月27日
1500年もの歴史をもつとされる越前和紙。
今も伝統の技法を受け継ぎ、手漉きで作られるその紙の魅力は、美しさと強さにあります。
かつては、奉書紙(ほうしょがみ:朝廷や幕府の公式文書に使われる公用紙)の中でも別格の地位にあるとされ、現代では数々の日本画家や版画作家に愛され続けています。
越前和紙が生まれるのは、福井県の越前市を流れる岡本川に沿った大滝町、岩本町、新在家町、定友町の一部と不老町の五箇地区。特別文化体験では、古来の紙漉きの技法を守り越前奉書紙を継承し続ける人間国宝、九代目岩野市兵衛さんの工房に伺います。
1500年前の伝説が残る、紙づくりの里「五箇地区」
越前和紙が生まれる「五箇地区」。伝説によれば今から1500年ほど前に、岡本川の上流の土地に見目麗しい姫が現れ「この村は清らかな水に恵まれているのでその水を使い、紙を漉いて生計を立てるが良い」と告げ、自ら衣を脱いで丁寧に紙漉きの技術を伝えると再び川上へと姿を消したと言います。人びとはこの姫を「川上御前」と呼び称え、岡太神社を建立すると共に、この地で紙漉きの伝統を受け継いできました。
現在でも、川上御前が現れたとされる岡本川周辺の五箇地区には、67軒もの製紙工房が軒を連ねています。越前和紙の生産を支えているのは、この地区の豊かな水。越前の山々に降った雪が溶け、再び湧き出してくる地下水は、硬度の低い中性の軟水。この水で晒し・煮られ・漉かれた紙は、ミネラルや銅・鉄の金属成分によって変色することなく、生成りの美しい色と強靭さ、なにより墨や顔料がよく乗り、数十年の時を経ても褪色しないという特長を有しています。
日々真摯に、ひたすらに、和紙と向き合う人間国宝
九代目岩野市兵衛さんは、昭和8年(1933)生まれ。父であった八代目岩野市兵衛氏が、第二次対戦後にシベリア抑留されたことをきっかけに、小学5年生の頃から紙漉きに携わるようになりました。以来、70年以上にわたり紙漉きに従事してその腕を磨き、2000年6月に、国の重要無形文化財「越前奉書」の技を受け継ぐ人間国宝に認定されました。
その紙漉きの手法は、まさに古来の伝統を今に残すもの。現在でも、化学薬品を使用するのは和紙の原料となる楮(こうぞ)を煮る際に、ソーダ灰を使用するのみ。それも必要以上の量は決して使用しないといいます。
また、現代の製紙の工程では原料を薬品で漂白することで、白い紙を生み出すことが多いのですが、市兵衛さんのつくる和紙の生成色の美しさを作るのは丹念な「ちり取り」の作業。山から引いた水を工房の中に引き込んだ「川小屋」で、煮出した楮を水に浸けながら、楮に残った硬い部分や、色のついた表皮を丹念に取り除いていきます。
市兵衛さんの工房では、ちり取りに時間をかけるため、1週間のうちに紙が漉けるのはわずか2日ほど。前屈姿勢の続く辛い作業であるため、紙漉きに憧れて工房の門を叩いた若い職人も、このちり取りの辛さに音を上げるといいます。
迷ったら良い紙は漉けない
丹念に選りすぐった楮は、作業台で樫の木で叩かれ、繊維をほぐされます。これをさらに水洗いして、ノリウツギという植物の樹皮から採取した糊料と共に漉舟に入れて、漉いていきます。
漉かれた紙は重ねられ、重石をかけて水をしぼり、今度は一枚一枚剥がして、銀杏材の板に貼り付けて乾燥させます。この乾燥時の温度は43度。高い温度であればすぐに乾燥するのですが、めくれあがったり板から落ちる可能性があります。そのため、低い温度でじっくりと時間をかけて、紙を乾かすのです。
何から何まで手作業、機械化せず時間をかけて作る理由について市兵衛さんは語ります。
「私は名人でもなんでもないんです。ただ、一心に紙を漉くことができただけなんです。迷ったらいい紙は漉けません。自信をもって欲をかかず、楽をせず、今日の仕事に取り組んでいるだけです」。
ルーブル美術館が認めた越前和紙
市兵衛さんの和紙は、平山郁夫や草間彌生、横山大観など著名な画家、版画家らに愛用されてきました。さらに近年では、ルーブル美術館などでも保管されている版画などの補修に用いられるようになっています。
「最初は断ったんです。私の紙が海外に行くなんてことは考えもしませんでしたし、そんなに大量の紙は用意できないと言ってね。それでもルーブルの担当者が、世界中の紙を集めて比べたら私の紙が一番だったと言うんです。それで折れました」。
市兵衛さんの和紙は、画材や美術品の補修だけでなく、スピーカーの内部の部材など、古来の和紙の枠を飛び越えて、活躍しています。
現在は、十代目となる息子さんも工房でその仕事を受け継いでいます。