交野ヶ原交野節
2021年12月26日
(かたのがはらかたのぶし)
大阪府 関西
南北朝時代の念仏踊りから発展、民衆の間で愛され 口伝を通して受け継がれてきた、「河内音頭」の源流。
南北朝時代(1337〜1392年)の戦乱による戦死者を悼む鎮魂の念仏が「交野ヶ原交野節」として現在も受け継がれています。この「交野ヶ原交野節」は、大阪府の枚方市と交野市にまたがる交野ヶ原で誕生しました。交野ヶ原は、平安時代(794〜1185年)に貴族の遊猟地として栄えた歴史ある丘陵地帯です。平安貴族たちが交野ヶ原を流れる天野川を空の天の川に見立てて歌を詠んだ、七夕伝説ともゆかりの深い土地です。現代でも、交野市には織姫を祀る機物神社があり、枚方市には彦星に例えられる牽牛石があります。
敵味方を超え戦死将兵を悼む軍師の念仏は、時代を超えて継承され ご先祖供養として、暮らしに根差す文化へと変わっていった。
大阪府枚方市・交野市に今も伝わる「交野節」は「七七」「七五」「七五」と三つの節(ふし)が繰り返され、一節目の後に入る「ヨホホイホイ」という掛け声が特徴の歌で、「河内音頭」の元節とされています。この「交野節」の起源で最も古いものは、南北朝時代にまで遡ります。南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)らと、北朝室町幕府方の高師直(こうのもろなお)らの間で行われた戦いに、敗北した楠木方の軍師が河内国交野郡まで落ち延び、戦死した将兵を弔うために念仏踊りを行ったことが最も古い起源です。この念仏踊りが時代を下るにつれて、民衆の間に伝わり、さまざまな文化や風習と融合し、やがて盆踊りとなったといわれており、少なくとも江戸時代中期ごろには、現在のような「交野節」へと変化していったといわれています。
この「交野節」は、元々河内音頭と名乗っていましたが、河内全域に広まるにつれて、他地域でも河内音頭と名乗る音頭が乱立したため、自らを「交野節」と名乗るようになったといわれています。現在でも、交野ヶ原では集落ごとにオリジナルの「交野節」が存在します。
時代を超えても不変な交野節とそのこころを後世に残すため 保存会が立ち上がり、記録に残らない文化の継承に乗り出した。
もともと「交野節」は民衆の間で自然と広まった歌であり、枚方市尊延寺に残る、交野節「石川五右衛門一代記」のように、多くの人びとが人気のある物語を節に合わせたり、わらべ歌や仕事歌にしたりと、さまざまなバリエーションを生み出していきました。
「交野節」は日常生活の一部として人びとの口伝えによって広まった文化であるだけに、公式な記録として残されてきませんでした。2017年にこの独自の文化を守り後世に残そうと、「交野ヶ原交野節・おどり保存会」が発足。小学生から社会人までさまざまな世代で構成されるメンバーが、交野節の歌と踊りを継承するだけでなく、枚方市の「特別史跡百済寺跡」の中秋の名月鑑賞会において踊りを披露するなど、地域と連携した取り組みを推進しています。また、枚方市駅前にある商業施設「枚方ビオルネ」前の広場にて、定期公演も開催しています。
さらに、この保存会では枚方市と連携し、ふるさと納税の返礼品として、オリジナルの「交野節」を作るという取り組みも行っています。民間で伝わってきた文化ならではの、融通無碍な対応、進化も「交野節」の魅力のひとつといえるでしょう。
ハイキングにも、子どもを連れたお出かけにも最適の 多彩なアクティビティ&歴史散策ができる交野ヶ原。
大阪と京都の中間にあり、奈良との境でもある枚方市と交野市には、絶景や歴史的な建造物からアミューズメントパークまで数多くの見所が点在しています。交野ヶ原交野節・おどり保存会が踊りを披露した「特別史跡百済寺跡」は枚方市の小高い丘の上にある寺院跡で、現在は礎石などの遺構が残っています。百済寺は奈良時代の東大寺の大仏建造に際して、大仏に塗るための金を陸奥国で発見した百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)がその功績によって河内守に任じられ、一族の氏寺として建立されたといわれています。
また、2022年に開園110周年を迎える「ひらかたパーク」は、地域のみならず関西全域で愛され続ける日本最古の遊園地。ジェットコースターや夏のプールに加え、「ひらかたパーク」の名物である、満開の菊で等身大の人形の体を彩った菊人形の展示も、関西を代表する秋の催しとして人気を集めています。
景観の面では、生駒山系の北方の峰である交野山(こうのさん)、弘法大師が修行したとされる私市(きさいち)の獅子窟(ししのいわや)など巨岩や奇岩の宝庫。かつては山岳信仰の修験者たちの修行の場だったところで、今でもパワースポットとして多くの登山者や参詣者が訪れています。
画像提供:交野ヶ原 交野節・おどり保存会/天の川・交野ヶ原日本遺産プロジェクト実行委員会/(公財)大阪観光局