伊勢神宮から熊野三山へ 来世の安寧願う祈りの道「伊勢路」
2020年03月11日
戦乱の世が終わり、安心して遠方へ往来ができるようになった江戸時代(1603~1868年)に入ると、人々はわれ先にと伊勢神宮を目指した。全国から何日、何週間とかけて、自然界の最高神、天照大御神が祀られた憧れの地、伊勢神宮にたどりつき、現世の幸せを祈った。そして伊勢参りを終えた人々が、次に来世の安寧を欲して向かった先が熊野。この信仰の旅へ誘うゴールデンルートを担ったのが伊勢から熊野へ向かう伊勢路だ。
その途中、馬越(まごせ)峠に自然石がびっしりと敷き詰められた石畳の道がある。天へと真っすぐに伸びる尾鷲ヒノキ林の中に続く石畳は、信仰の道、生活の道、そして観光の道として四百年にわたって大切に手入れをされてきた。
馬越峠のある尾鷲市は日本一の多雨地域だ。降り注ぐ雨は豊かな森を育み、林業という生きるすべももたらした。尾鷲の人々は、大雨による土砂崩れを防ぐために石を敷き詰め、信仰の道を守った。
石畳の道を進むと、巨岩の山頂から尾鷲湾が一望できる天狗倉山(TENGURAYAMA)がある。その名の通り、修行者の姿で空を飛ぶ天狗(TENGU)が飛来した伝承が残り、山へ籠もり厳しい修行で悟りを得る修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)が祀られている。
古来、日本では岩や木など森羅万象に神が宿ると考えられそれが神道として発展。さらに山を崇拝する山岳信仰、さらに6世紀に中国から伝わった仏教があいまって「修験道」という宗教が生まれた。7世紀に入って、役小角が紀伊半島の険しい山中で修行を重ねた道の終着点が熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社の熊野三山である。
熊野は、死後の極楽の地を意味する浄土と見なされるようになり、険しい山道を上り下りかいた汗の量だけ穢れは流し落とされ、浄土にたどり着くことができると信じられた。そして、「よみがえりの聖地」として、10世紀ごろからは天皇をはじめ多くの貴族たちの熊野詣も始まり、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどの隆盛を極めることになる。
馬越峠のある尾鷲市には、これら伊勢路の歴史や東紀州の文化、自然を学ぶ施設として、尾鷲ヒノキの角材で作られた美しい木造建築の三重県立熊野古道センターがある。
尾鷲からさらに南へ下った熊野市は、江戸時代に入った17世紀以来、紀州藩の役所が置かれて栄えた。伊勢路の最後の峠道である松本峠は、熊野速玉大社がある新宮まで約25kmも続く七里御浜を見下ろす絶景のポイントだ。近くの海岸には、海に削られ、大地震で隆起した凝灰岩がつくり出した奇景、鬼ヶ城などの名所もある。
七里御浜に沿った浜街道には、日本が誕生したとされる国生み神話で、神々の母であるイザナミノミコトの御陵と伝わる、花の窟神社がある。高さ45mの巨岩が御神体で、8世紀に記された日本書紀に書かれている通り、今も毎年、氏子らによって「お綱掛け神事」と呼ぶ、岩に綱を掛け花などを祀る神事が続けられている。
新宮市は、和歌山県の南部、熊野川の河口に位置し、古くから木材の集散地として栄えた。熊野速玉大社があり、熊野本宮への入り口として今も熊野地方の中核をなす。新宮は日本書紀には熊野神邑という地名で書かれ、初代天皇である神武天皇一行が東征の折、最初に辿り着いた場所とされている。
熊野速玉大社の境内には、樹齢千年を超えるナギの大樹がある。ナギが、穏やかな海の状態を意味する凪(NAGI)に通じることから、道中に家内安全を守る熊野の神様の象徴として信仰されている。また、境内南の神倉山中腹には、熊野速玉大社の元宮の神倉神社がある。御神体の「ゴトビキ岩(ゴトビキはヒキガエルをあらわす新宮の方言)」は絶壁の上にある巨岩で、538段の石段を登ったところにある。この巨岩から始まったとも言われる熊野信仰。最後の苦行を終えれば、古来、貴賤を問わずあまたの人が目指した「よみがえりの聖地」が目の前に開け、伊勢参りから始まる本参りの旅はここに完結する。