大紀伊半島
2020年11月05日
謎のパワースポットを歩く
紀伊半島は日本最大の半島で、古来より近畿地方でのパワースポットでした。現在「紀伊半島」と呼ばれる地域は、日本を東西に走る断層の「中央構造線」以南の三重県・奈良県・和歌山県が「紀伊地域」と国で指定されている地域です。つまり紀伊半島は、関西の大都市神戸・大阪・京都・名古屋の南部地域です。これほど大きな地域が今、注目されるのは、そこには依然として強力なパワーの源となる「奥」が存在しているからです。
その一つが「熊野」です。日本の古代を知らせる『日本書紀』神代記には伊奘冉尊(いざなみのみこと)の葬られた所として熊野が記されています。また、古来修験道の修行の地としても知られるように、山岳信仰の地でもありました。平安時代後期(10世紀、11世紀)には阿弥陀信仰が広まったために熊野は「浄土」とみなされるようになり、時の上皇たちが「熊野詣」をすることが流行します。そのため、京から大勢の随員を連れて熊野までやってくるので、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどでした。中世の文人たちはその辛さ、険しさを書き残しています。
その道が世界遺産になりました。世界文化遺産の中で、巡礼の道が登録されているのは、二つ。1993年登録された「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」と2004年登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」です。
奇しくもともに11世紀に多くの巡礼者を迎えることとなる二つの道は、起源を異にしているとはいえ、その道のり、その険しさ、死をも厭わぬ精神性といい、何かしら「巡礼」の共通項があります。サンティアゴへの道は、キリスト教の三代巡礼の一つで、四つの巡礼コースがあります。一方、熊野へ向かう道は、五つ。有名な中辺路(なかへじ)を通るかつて上皇たちの参詣ルート、他に大辺路の海沿いルート、小辺路の山間を通るルート、伊勢路から西進するルート、紀伊路という熊野の入口までのルートです。何れにしても歩くことが修行という厳しいコースです。それがなぜ全く世界の違う、当時は二つの道を知るよしもない地域でともに11世紀に隆盛をみたのか、またこの20世紀に甦るように人気を呼ぶのか、大きな謎がそこにはあるように思えてなりません。また、「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録された年である2004年は、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂では大祭の年にあたり、600万人もの巡礼者が訪れました。本当に奇縁のある二つの道だと思われます。
それにしても、なぜサンティアゴへの道では欧州の最西端へ、熊野古道では京都から最南端を目指したのでしょうか。アメリカからやってきてスペイン北部からサンティアゴへの道を800キロ歩いている現代の若者に「なぜ歩くのか」という質問をした時、彼らは「この道の全てが歩くことを教えてくれる、目的地はあるけど、そこにたどり着くだけが全てではない」と答えてくれました。「歩く」のはたとえ長く険しい道であっても、その過程が己れを鍛えてくれるということでもありました。日本ではそれを「修行」というでしょう。その修行になぜ駆り立てられるのでしょうか。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つに、「熊野古道」があります。熊野とは、奥まったところという意味があったのではないかと言われています。神仏を祀るところでは、よく「奥之院」と呼ばれる場所があります。この「奥」にも関連することでしょうから、そこには何か重要なものがある、と思われます。と同時に、そこで最後の最後にはわかることがあるのかといえば、なかなかたどり着けないものです。だからこそ「奥」なのでしょう。いわば途上の分岐点のようなものといえます。しかも、紀伊半島の南には太平洋の海原が広がっています。海はそこから世界へつながる場所でもあります。古代、この熊野の地へやってきた人が、海から光るものを見出したという話があります。それは那智の滝であったのではないかと言われています。落差133メートルの滝は熊野灘から見えないはずはなく、まさに神秘を思わせたのではないでしょうか。
また、熊野の西には「高野山」があります。9世紀に空海によって開かれた修禅道場で日本仏教の聖地の一つです。ここも世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」であり、多くの観光客が訪れています。高野参詣道や金剛峯寺境内などがその世界遺産の範囲ですが、ここには「歩く」ことに関係する大きなポイントがあります。それは日本でもっとも著名な巡礼=遍路のコースとして「四国八十八ヶ所・四国遍路」というものがあり、88カ所の寺院を歩き巡って修行するというものですが、距離にして1100~1400キロの道のりを歩くことになります。その「結願」した人が「お礼参り」として高野山の奥の院へ詣で、納経帳(88カ所参った証明)を納めることで「満願成就」するというものです。高野山は多くの仏教徒の修行の場であるとともに、「歩き」の証明でもあるのです。これは紀伊半島が「奥」を持つ一つの印かもしれません。
さらに、紀伊半島では東に「伊勢神宮」があります。伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀る神宮で、古代より多くの参詣を受けてきました。熊野詣にも案内人として熊野御師が旅の手配や宿泊・祈祷などの世話をしてのですが、伊勢神宮への参詣も「御師」が活躍します。鎌倉時代からいたと言われますから、その歴史は古く、江戸時代には「お伊勢参り」として流行した旅を案内から宿の手配など、まさしく旅行ガイドであったわけです。日本全国各地から伊勢を目指して歩く人たちが多くいたこともあり、御師は強力な支援者であったのでした。ここにも「紀伊半島へ歩く」という一大ルートが存在したことがわかります。つまり、東の伊勢、南の熊野、西の高野山、などまだまだ他にもあると思いますが、紀伊半島がいかにパワースポットであったかがわかるのではないでしょうか。
とはいえ、どんな場所も終点は始点でもあるはずです。私たちがよくパワースポットを訪ねるのは、そこに結論があるのではなく、そこからまたスタートするための何かをいただくためではないでしょうか。「歩く」修行の先にあるもの、スタートするための何か。そんなスタートにパワーを与え、しかもそれでもなお謎を秘めた場所として問いを残している場所、それがまさに紀伊半島の心部・奥処があるということではないかと思われます。