武士が激しく戦っていた戦国動乱期

武士が激しく戦っていた戦国動乱期

2021年02月09日

The KANSAI Guide

播磨は、その最前線であった!

 播磨は、現在の兵庫県の南西部の播磨灘に面した地域である。古代より、日本の中心の奈良や京都の都のある近畿と西日本との間にあり、山陽道や瀬戸内の海上交通で結ばれた重要な地域であった。

 15世紀後半、室町幕府の後継者争いに端を発した応仁の乱が始まると、旧来の秩序は乱れ実力者が領土を広げる戦国時代となった。領主に変わり、配下の武士が家を乗っ取る下克上の世界が生まれた。西洋の騎士と同じように、武士たちは戦場で戦って武勲を立てることに人生をかけた。織田、上杉、武田、徳川、毛利等の武士団による戦いが繰り返されたのだ。16世紀後半、世界に版図を広げたスペインに、オランダ、イギリスが世界貿易の覇権を争っていた時、日本では、織田信長が天下統一へ歩みだしていた。近畿圏を制圧し、残る重要な課題が、西日本の雄である毛利氏を倒して全国を平定することだった。その毛利氏との軍事的な最前線となったのが、播磨地域であった。この地域は、戦国の気風が強く多くの武士団が争っていた。信長は、配下の秀吉に平定を命じる。秀吉は、姫路城を拠点に、播磨を平定し、西の毛利氏を傘下に治め、大坂城を本拠に天下統一を成し遂げた。その後、17世紀の初め、徳川が豊臣を倒して徳川幕府を開くと、西日本のかつての豊臣側の大名たちをいかに押さえて支配するか。さらにいか攻め入られないように防衛するかが大きな課題となった。そこで、摂津から播磨の山陽道沿いに、大坂を基軸に、尼崎~明石~姫路と、城と城下町を整備した。さらに播磨には、徳川の信頼の厚い武士たちを藩主として守りを固めた。徳川治世の約300年間、播磨の武士たちは、その役割を守り続けたのだ。

 このような戦国時代には、「武士道」とは戦いに勝つことであったが、江戸時代に天下が統一されると、武士の精神は、道主君への忠誠、自身の名誉や意地を重んじることに変わっていくのだった。今回は、戦国から徳川時代の武士たちが、もっとも熱く活躍した播磨地域に焦点を当てて、武士道の文化を知ることが出来る、いくつかの物語を紹介しよう。

姫路城
 最初は、播磨の中心にある姫路城からはじめよう。

 国宝の姫路城は、白鷺が翼を広げた美しい姿を思わせることから白鷺城とも呼ばれ、日本で初めて世界文化遺産として登録された建造物である。戦国時代に黒田氏が築いた小さな山城であったが、秀吉が播磨平定、毛利攻略の最前線として再構築したのが始まりだ。秀吉は、身分の低い出身で、信長に仕え、次第に頭角を現して、播磨平定の司令官になった。この時、秀吉の参謀として、活躍したのが黒田官兵衛で、後に秀吉を天下人にさせる。姫路城が出世城といわれる所以である。姫路城から北側に足を延し、ロープウェイで書写山に登ると、トム・クルーズ主演の映画「ラストサムライ」のロケ地としても知られる円教寺がある。ここは、毛利攻めの時に、秀吉が陣所とした所でも有名だ。
 江戸時代になると、西国の武士への防衛拠点となる。初代城主は、池田輝政。その後、家康の孫・千姫が姫路城に入城する。千姫は、徳川の敵である豊臣秀頼、秀吉の息子の妻であった。大坂の陣で燃える大坂城から助け出され、のちに播磨姫君と呼ばれるようになる。千姫が嫁入りしたときの持参金は10万石(一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当)という破格な額であった。この莫大な資金で西の丸等を増築、五層六階の大天守(中心となる建物)と三つの小天守、八十余りの櫓を持つ、美しくも堅牢な見事な城が完成した。女性のような美しさを持つ姫路城はまさに徳川家の女性との深いかかわりのもとできたといってよい。
 その後、頻繁に城主の交替を経て、酒井氏が近代化の進む19世紀後半に至るまで120年間統治した。姫路城は築城後、一度も戦火や災害に見舞われることなく、第2次世界大戦時も町は焼け尽くされたが、運よく破壊を免れた。幸運の城である。姫路城の歴史は、城の北側に建つ兵庫県立歴史博物館に詳しい。

有岡城
 有岡城は、戦国時代、信長の配下の武士、荒木村重が伊丹城を攻め落として新たに作った城。秀吉とともに、播磨の平定に動いていたが、突如、敵の毛利方に寝返る。10か月の籠城戦の末、信長に負け、城は焼け落ちる。この時、秀吉の参謀、黒田官兵衛が村重の説得に有岡城に入るも、幽閉されてしまう。後に助け出され、サムライの鑑として秀吉のもと出世街道を走った。一方、村重は信長の死後、秀吉に茶の湯をもって仕える。数奇な運命と言ってよい。村重のほとんどの縁者は殺されたが、生き残った息子が、江戸時代、奇想の画家として有名な岩佐又兵衛である。現在、有岡城跡は、JR伊丹駅前に隣接した、市民公園となって、市民の憩いの場所となっている。

尼崎城
 1617年、江戸幕府の命令で、大坂の西の守りとして築城された。海辺に面した、4層の天守閣を持った大きすぎる城を作らせた。幕府がいかに、尼崎を重視していたかがわかる。

 城を作ったのは、戸田氏鉄。関ケ原や大坂の陣の歴戦の武士だ。城とともに、城下町も整備された。かつての尼崎藩は、現在の尼崎市以外に、宝塚市、西宮市、伊丹市と神戸市の一部を含む広い範囲であった。一時は、西宮や灘の酒造地帯も含んでおり、豊かな藩であった。尼崎城は、明治の廃城令で、石垣まで取り壊されたが、2018年に、資産家の好意で、尼崎駅前に、天守が復元された。天守閣の中は体験型の歴史を学べる施設になっており尼崎城築城時の姿をVRで見ることが出来る。

明石城
 JR明石駅のホームに立つと、北側に高さ20メートル、東西の幅380mの長さに及ぶ石垣と二基の白壁の三層櫓が残る明石城跡の美しい姿が目に入る。城跡に登ると、目の前に、明石海峡や明石大橋の絶景を一望することができる。明石城もまた、1618年、尼崎城に続いて、西国の外様大名を睨む城として作られた。城を作ったのは、小笠原忠真。大坂の陣で、父、兄とともに奮戦した武士だ。またここ明石城下の町割りは、剣豪で武士の心得を記した「五輪書」の作者でもあり、英訳されて欧米でも人気のコミック「Vagabond」の主人公・宮本武蔵が関わったと伝えられる。現在の市街地にも町割りの跡が残っている。潮の流れの速い明石海峡で洗われた、いきのいい明石タコや明石鯛などの魚が手に入ることで知られる「魚の棚商店街」も、「東魚町」として築城当初からあった町である。明石城と城下町の歴史については明石市立文化博物館に詳しい。
 赤穂は、武士の精神文化に触れることができる町だ。赤穂藩藩主の浅野長矩は1701年、江戸城で指南役だった吉良氏に斬りかかり、長矩は切腹を命じられお家断絶となった。この時、吉良氏側には、何のお咎めも無かった。長矩の家老、大石内蔵助はお家再興を図るも果たせず、翌年四十七人の侍を引き連れて江戸の吉良邸に討ち入り、主君の悲憤を晴らした。有名な赤穂事件である。その後、四十七人は切腹の処分を受けた。主君の仇を討つこの話は『忠臣蔵』として文楽や歌舞伎のテーマとなり、日本人の心を揺さぶり続けてきた。毎年12月14日には、赤穂藩四十七士にちなんで、義士祭が行われ、多くの観光客が訪れて往時を偲んでいる。この物語はアメリカでも、「47ローニン」のタイトルで映画化された。

 
 赤穂といえば、塩の生産地としても知られてきた。ヨーロッパでは塩と言えば岩塩だが、日本では海の水分を蒸発させて塩分を結晶化させる海塩が使われてきた。赤穂では瀬戸内海のデルタの砂と適度の干満潮差が、海水を導いて乾燥させる入浜塩田を発達させ、日本有数の塩の産地として発展。塩と赤穂義士の詳細は、赤穂城に近い赤穂歴史博物館で知ることができる。

 龍野は、古来から山陽、山陰の両道をつなぐ交通の要であり、軍事的要衝の地であった。龍野城は15世紀に山城を築いたのが始まりとされる。龍野藩の脇坂家は、5万石余の小藩ではあったが、幕府からの信頼が厚く、寺社奉行、老中など江戸幕府の要職を務める人物を出している。龍野の歴史を語る時、龍野醤油を見逃すことは出来ない。現在も、淡口醤油は400年の伝統産業として生き続けている。町を流れる揖保川の西は、今も、播磨の小京都といわれ、町屋や醤油蔵のある美しい町並みが往時を伝えている。城内にある龍野市立歴史文化資料館には、入口に大きな江戸時代の龍野藩の絵図が飾ってある。現在の町並みはこの絵図とほぼ変わらない。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような町歩きを体験したい。江戸時代、脇坂家の藩政が良く、町も裕福であったようだ。こうした歴史的な背景が、明治以後も、三木清や三木露風などの著名な哲学者や文学者を育み、今も詩情豊かな文学の町として息づいている。

 播磨地域の、城と城下町に残る、武士たちの生き様を見てきた。戦国時代は一介の武士でも、天下を狙える下剋上時代で、秀吉のような英雄が生まれた。しかし、江戸時代になると、江戸幕府の管理のもと、藩という小さな独立国家の中で、藩の為、藩主の為に、生きることが武士道となった。播磨には、姫路藩を始めとして14の藩があった。それぞれが、生き残りをかけて、殖産興業に力を入れた。財政を健全にして、領民を統治したのだ。武士道の形は変わっても、今も生きている日本人の在り様が、ここ播磨エリアに垣間見ることができるのではないだろうか。

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