Spiritual KANSAI シリーズブログ8 : 日本の城1
2021年02月18日
関西地域は日本の精神文化の聖地であり、正真正銘のおもてなしに溢れる関西。そんな関西を「Spiritual KANSAI」と題して、様々なテーマを抽出しコラムにまとめてみました。本ブログシリーズでは、それらコラムを順に紹介していこうと思います。シリーズ第8弾は、「日本の城」をお届けします。(以下文章は本サイトのSpiritual KANSAI コラムページ(https://kansaiguide.jp/rt/column/)より引用しています)
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関西の城1
侍の優雅なシンボル
日本の歴史の中で、関西エリアは争いの激しい地域の一つでした。そして様々な武将たちが領地を奪い合い、戦いで勝ち取った領地を守るために城を築きました。その城の多くは山を掘削してつくった「山城」と呼ばれるもので、それは山頂を平らに削ってつくった曲輪(くるわ)をはじめ、堀や土塁、門や柵を設けたシンプルものでした。山城には、番所、
住居、台所、厩舎、櫓(やぐら)などがありました。城は、戦が増えるにつれ、大きさや役割、その構造が複雑なものへと変化していきました。「山城」も、より大きくなり、精巧になっていきます。そして山城よりも大きい「平山城」というスタイルの城が登場します。
それは丘や山と共に、その周囲にある平坦な土地も活用してつくられます。その後、城は平地を利用し、より壮大で精巧な要塞となる「平城」へと移り変わっていくのです。
日本の城は単なる軍事施設ではありません。権威の象徴でありながら、軍事施設としての機能性を備え、なおかつ建造物としての美しさも兼ね備えていました。城は、一つとして同じものはありません。立地、縄張、防御機能、天守、櫓、門、御殿などは、それぞれの城によって大きく異なります。武士は、軍事力だけではなく、素晴らしい美的センスを持った人たちでもありました。城を訪れる人の多くは、象徴的な存在である「天守」ばかりに目がいきがちです。しかし、城というのは「天守」のことを指すのではありません。城というのは、堀や城壁、門、そしてその構造から成る城郭全体のことであり、場所を指すのです。
かつて関西には、何千もの城が点在していました。その中には戦で破壊されたものもあれば、必要がなくなったため廃城となったものもあります。豊臣秀吉が天下を取った1584年以降、
日本には204の領地がありました。ほとんどの大名は自身の領地を守るため、領内に1つか2つの居城に加え、複数の小さな城も所有していましたが、秀吉は、直轄の大名にだけに城を持つことを許可したため、多くの武将は、城を捨てることを余儀なくされました。
また1600年代初め、徳川家による支配の時代になると、一つの藩に一つの城のみとする「一国一城令」が施行され、多くの城が廃城となりました。その他、地震や台風、落雷や不慮の火災などによって城が失われることもあり、城の数はゆっくり、そして確実に姿を消していくことになります。
1868年、徳川幕府の260年に及ぶ支配は終焉をむかえ、国は明治天皇へと委ねられました。そして、維持管理することが難しくなった城の多くは、次第に取り壊されていきます。それを逃れ残った城の中には、第二次世界大戦の空襲により失われてしまったものもありますが、幸いにも関西地方には歴史的に重要、かつ魅力的な城が今もいくつか存在しています。
つづく