豊かな実りと美しい風景を生み出した日本一の里山群
2021年02月26日
「里山」とは、その土地の人が生業のために働きかけ、手を入れている山のことだ。
西日本の山はかつて照葉樹林(常緑広葉樹)の生い茂る、深い緑の山だった。今から3000年ほど前に稲作が伝来すると人口が増え、燃料確保のため照葉樹林は切り取られていちどは禿山が増えた。古代から今まで唯一切られなかった照葉樹林は神社の鎮守の森である。里人は植林するにあたり、生成の早い落葉広葉樹を植えた。枯葉により腐葉土が生成され、火付きの良い燃料が手に入り、太陽光の入る明るい山へと変わった。その結果、動植物の多様化も進んだ。人が山へ働きかけることで、ひとつの共存生活圏を作り出したのだ。
だが、戦後の燃料革命により薪が燃料として使われなくなると、山に里人の手が入らなくなっていった。日本の森をこよなく愛し、日本に移住したウェールズ人作家のC.Wニコルは、これらの山を「一見緑に覆われているように見えながら、生態系としてのバランスを崩してしまった日本の森」と評価し、里山の再生に力を注いだ。
兵庫県から京都府にかけての山間に位置する丹波地区には今なお里山を維持し、生活の舞台にしている里人がいる。
パッチワーク状の森が連なる日本一の里山・黒川
丹波の入口、兵庫県川西市北部に、日本一といわれる里山、黒川地区がある。この辺りは「菊炭」といわれる切り口が菊の形をした炭の産地だ。一帯は多田銀銅山の鉱脈の上にあり、奈良時代から銅を産出していた。東大寺大仏の銅の精錬で大量に黒川の炭が使われたという。最盛期には炭焼農家が40軒もあり、千利休や豊臣秀吉にも最高級の茶炭を供給していた。今なお1軒の農家が茶道用の黒炭を焼いている。
黒炭は焼成後、窯に蓋をし、窯の中で空気と遮断し蒸し焼きにする。その材料として使われるのがクヌギだ。形のいいクヌギを地上から1~2mで伐採、そして萌芽枝を育て、8~10年後に再び伐採する。これを「台場クヌギ」という。この地区の里山は、材料のクヌギを順に伐採植林を回してゆく「輪伐」によって見事に里山維持をしている。
本物の里山景観とは、伐採年代のことなる様々な樹林が、このようにパッチワーク状に連なる植生景観のことである。ここ、黒川では本物の里山景観が現在でも見ることができる。生業により里山との文化を築き続けており、「日本一の里山」といわれる所以である。
地域のマツが独特の表情を生み出す丹波焼
里山は文化をも生み出してきた。兵庫県丹波篠山市今田地区でつくられる陶器の丹波焼は、2017年に日本遺産に登録された「日本六古窯」のひとつだ。その歴史は古く、平安時代(794~1192年)後期には窯が築かれていたということが最近判明した。
古くは穴窯で日用雑器を自然釉で焼いていた。江戸時代に入ると、炉内を仕切り、斜面地を利用し燃焼ガスの対流を利用して一定温度で大量に焼ける登り窯が用いられるようになる。1300度ほどの高温で50~70時間焼くため器の上に降った松の薪の灰が、釉薬と化合して焼き色を変化させ、「灰被り」と呼ばれる丹波焼ならではの模様と色を作り出す。また炎の当たり方によって器の一つひとつが特有の表情を生み出す。
昭和初期には思想家の柳宗悦らにより、民衆の暮らしのなかから生まれた美である民芸を復興する活動により、その芸術性が見いだされ、多くの陶作家が生まれた。
丹波焼は焼成に多くの薪を使用する。約60軒以上ある陶作家は薪を必要とする場合、自分で山に入るか、購入するかはあるが、いずれも手近な里山から求めている。特に高温で焼き締める登り窯を用いる場合は、カロリーの高い松を主に使用する。このように、里山を昔と同様に燃料庫として使用し続ける今田地区は理想的な里山と言える。
豊かな里山が生み出した美山の茅葺屋根群
京都・高雄から杉の銘木産地で有名な「北山」を過ぎ、周山街道を日本海に向かって走ると、突然、山の麓に茅葺の集落が現れる。陽だまりの中に茅葺が黄金色に輝いているさまは圧巻だ。なぜこの京都府南丹市美山町の一帯に豊かな集落が生まれたのか。
集落の中を、鯖街道のひとつが横断している。鯖街道は、重要なたんぱく資源であるサバを日本海の小浜、高浜から京まで運ぶ道だ。この集落を抜ける鯖街道は最古に近く,往来の旅人が多かったため、様々な地方色が入った生活文化を築いたとも言われている。
美山の人々は、1960年代まで林業を生業にしていた。美山の杉は大径木として建物柱や板材として、大量に京都に出荷された。炭焼きも都で唯一の燃料として大いに売れたことであろう。美山は林業王国であったのだ。その豊かさの源泉はやはり里山であった。美山民俗資料館には、大鋸から大斧まで様々な山道具が保存されている。
その後、林業が衰退すると、茅葺の維持もだんだんと難しくなった。1993年、周囲の水田、山林とともに、国の重要伝統的建物群保存地区として選定された。現在は住民出資の(有)かやぶきの里、を設立し、建造物の維持管理と観光業務運営を組織的に行っている。現在50棟中39棟が茅葺だ。囲炉裏で火を焚いていた時は50年に一度の茅の吹き替えであったが、防火のため、現在では火が使えなくなり、茅の腐食が早くなり20年ごとの吹き替えが必要である。
丹波栗、丹波黒豆、丹波松茸、丹波牛…。食品にご当地の名前が付く「ブランド食材」は多々あるが、丹波のように一地区でこれだけの食材にブランドを冠する地区は、全国でも稀有だ。丹波は、里山と水に恵まれ、温暖で、しかも古くから後背地に京を抱え、近郊農業には絶好の地であった。丹後と京を結ぶ街道が里山を縫っていく筋も通り、人と物の往来も多い。そこで人をもてなす習慣が生まれ、口から口へその銘産は伝播されて、知らずのうちに、ブランド化していったのであろう。生活に根差し、山とともに生きた里人の生きる知恵は、地域に富と文化をもたらし、美しい風景をも作っていった。その丁寧な暮らしぶりが丹波には今も息づいている。
以上のような「里山文化」を学ぶのに最適の施設がある。兵庫県立「人と自然の博物館」(三田市)だ。ここでは、里山林の歴史的変遷から現在の姿、そして理想的里山のあり方まで、実に丁寧な展示と説明が得られる。ここを訪れると、里山を見る目が変わるだろう。