今に息づく伝統産業のルーツは、サムライにあり
2021年02月26日
応仁の乱(1467年)から、大坂夏の陣(1615年)までの約150年間、さまざまな武将たちがサムライを引き連れ、天下統一を目指して戦国時代という乱世を生き抜いた。これらサムライの台頭とともに、戦に使われるさまざまな武器や、彼らの生活に根差した道具が重宝され、そこにかかわる産業や文化が発達していくことになる。
中でも現在の福井県の丹南地域から、滋賀県、三重県の北部にかけてのエリアは、古来より大陸からの文化の流入口であったこと、奈良や京都の都の消費地が近いこと、都から貴族、武士や知識人らの移動が頻繁にあったことなどから多くの伝統産業が発展した。
その中で、今回は、国友の鉄砲鍛冶、甲賀忍者と薬、甲賀の信楽焼にスポットをあてて、発達した理由と、現代にどう継承されているかを、探ってみる。
天下統一を支えた国友の鉄砲鍛冶集団
16世紀の後半、織田信長が誰よりも早く多くの鉄砲を使って天下統一に名乗りを上げたことは有名だ。当時、最強の騎馬軍団を誇っていた武田家との長篠の戦いでは、鉄砲を有した信長が勝利した。信長は、最盛期には30万丁の鉄砲を所有していた。この鉄砲の生産を担ったのが、現在の長浜市、国友村の鍛冶集団だった。
国友村周辺は古代より、大陸の技術を受け継いで、優れた鉄を作っていた。近くに修験の山があり、修験者が使う道具や、観音像を多く祀る土地柄、仏師が使う鉄道具の需要があった。1543年、ポルトガルから鹿児島県の種子島に鉄砲が伝来した翌年、足利将軍から製作を命じられ鉄砲生産が始まった。鉄砲を分解して構造を理解し、ネジを開発。分業制を導入し大量生産を可能にした。6年後には、信長から500丁の鉄砲の注文を受ける。当時のスペインやオランダ産の銃と比べても命中率、射程距離の長さなど技術レベルは大きく上回っていた。
信長以後も、豊臣秀吉、徳川家康ら時の覇者の手厚い保護を受けて発達し、盛時は500人、70軒の鉄砲鍛冶師がいた。
明治以後、火縄銃で培った技術は、金工彫刻や、花火の製造に活路を見出す。金工彫刻の粋は、今も長浜の山車、曳山や長浜仏壇の彫金技術へ伝えられている。
1981年、住民の呼びかけで鉄砲研究会が発足し、昭和62年、鉄砲の歴史や実物を展示した、国友鉄砲ミュージアムが開館した。そして、住民たちの手で国友文化村づくりとして、展示館だけでなく、鉄砲の里の町づくり事業を推進している。
くすりの原点は、甲賀山伏の知恵と秘儀
忍者は、戦国時代から江戸時代の初期にかけて、情報収集や奇襲戦法に活躍した戦闘集団である。近年、忍者の実態が明らかにされつつあり、生き残るために戦での傷や病などは自前の薬で治していたこと、非常食や毒薬、火薬などもつくっていたことがわかっている。
甲賀では、中世から近世にかけ、多くの山中で修行をする山伏たちが活動していた。一帯は薬草の宝庫であり、病に悩む庶民に薬を与え、治療も行った。都である京都で医学、薬学、本草学等を学ぶ機会もあり、中国由来の生薬なども手に入れ、くすり生産の基礎を作った。
近世に入ると、各地の社寺の信仰を広めるため、お札配りの土産に配ったのがくすりであった。くすりをつくっていた山伏とともに山岳修行に励み、くすりの知識や精神集中する方法などを秘術として取り入れた人々が忍者のルーツとなり、戦における諜報活動を担う存在として存在感を増していく。
忍者は、江戸時代になると、活躍する場が少なくなり、くすりを作り、山伏となって、売薬を行うようになった。そして、明治になると、売薬が本業となった。
甲賀の山伏に端を発したくすりは、甲賀流忍術に影響を与え、忍者の得意技のひとつとなり、やがて甲賀の配置売薬、そして滋賀を代表する地場産業に発展したのだ。
甲賀のくすりと歴史については、甲賀市くすり学習館が詳しい。近隣には、かつての忍者の屋敷跡や忍者をテーマにしたテーマパークの甲賀の里 忍術村の施設もある。
天下の武将に愛された茶の湯と信楽焼
信楽焼は、現在の滋賀県甲賀市の信楽で作られる陶磁器で13世紀後半頃に生産が始まったとされる。花崗岩が風化物である粘土の地層が当地に分布しており、やきものに適した土が入手できる。
中世を通じて、信楽は壺や甕などの日用品が生産されていた。だが、15世紀の後半になると茶の湯に用いる茶陶の生産が始まる。じっくり時間をかけてお茶の葉を挽き、お湯を沸かし、茶を点てて、できた茶を静かにいただく茶の湯。戦乱の世、常に死と隣り合わせていた武将たちは、精神を落ち着かせる場を求めるように茶の湯にのめり込んだ。
信楽焼は茶の湯の作法にふさわしい道具として重用された。穴窯による焼成と、燃料の薪から灰によって生ずる自然釉が作るはかなさと美しい焼き上がりが、茶人たちをとりこにしたのだ。名品を持つことが、天下人の権威の象徴となった。
甲賀は中世より茶の生産が盛んで、朝廷に茶を納めており、信楽焼茶壷の産地でもあった。江戸時代には、将軍家で使用する葉茶を江戸城へ運ぶための茶壺も信楽で焼かれた。
近代以降は、茶器に限らず、タイルや植木鉢、タヌキの置物などあらゆるやきものを消費者のニーズに合わせて製作し、伝統と創造の共存した産地に発展した。タヌキの置物は、信楽焼の名物となり、信楽のあちこちでユーモラスな姿を見せる。
信楽焼の作品や歴史については、滋賀県立陶芸の森陶芸館が詳しい。
いつの時代も、戦争はさまざまな産業、そして文化を育んできた。今回取り上げた事例はすべて近江(現在の滋賀県)だが、越前の国(現在の福井県)の旧国府のあった武生や鯖江市の周辺にも、越前和紙、越前漆器、越前打ち刃物、越前焼の産地が連なり、いずれも現代の地場産業として脚光を浴びている。